何故背が高い? 加須市の「 背高地蔵 」
皆さんこんにちわ。 本日は当院の近隣に祀られて御座いまする
「 背高 ( せったか )地蔵 」 の儚い伝説。
このお地蔵さんは、田んぼが一面に広がる下埼 ( 旧騎西町 ) の風景の中
村のシンボルの如く、場所や方向を確認する目印代わりにされています。
当院が加須市へ越してきた時に、一番始めに目に止まったのが
このお地蔵さんでした。 2.5メートルもあるのですよ!
どういう訳で背が高いのか? 気になっていたのですが
「 加須インターネット博物館 」 に、洪水にまつわる伝説がありました。
むかしむかしのこと。来る日も来る日も雨ばかり。川の水かさは増し
あちこちの堤防が切れ、大水が押し寄せて来ました。家は大水に飲みこまれ
人や馬は流され、辺り一面はまるで海のような景色になりました。
このような地獄のようなありさまに、村人もどこかへ行ってしまいました。
それから何年かが経ち、ひとりふたりと村人も戻ってきました。
田や畑も、元の景色に戻ってきた頃です。洪水で亡くなった人の供養にと
お地蔵さまを立てることになりました。
そこで 「 どんな大水にあっても潜らないお地蔵さまにしたい 」 と、背の高い
お地蔵様が造られたということです。
引用 加須インターネット博物館 41 背高地蔵
いやはや、儚い願いが込められていた事をしりました。 お地蔵さんは享保3年
(1718)の造立とありますから、300年以上も前の出来事です。
そして、お地蔵さんの事を調べていて思ったのですが、加須市は
「 インターネット博物館 」 や 「 騎西文化・学習センター( キャッスルきさい ) 」 など
地元の歴史に、熱心に取り組んでいる地域であることを知りました。
鍼灸や漢方なども 「 温故知新 」 の東洋医学と言われておりまして
古典から現代医療との交わりを経た今も、日進月歩していくのだと思いますが
過去をないがしろにすると新しい発展はなく、それは地域にも言える事です。
地元の人に関わらず、外部から越してきた私のような方にとっても
「 郷土 」 を理解しようと思った時に、できる環境作りは素晴らしい!
加須には 「 騎西城跡 」 もありますし、お地蔵さんが造立された時代は
江戸時代ですから、この頃は、米将軍と呼ばれた 「 徳川 吉宗 」 が行った
享保改革の一環であった 「 小石川養生所 」 が開設される数年前の出来事。
小石川養生所は、我が国初の 「 無料の医療施設 」 で 「 赤ひげ先生 」
の愛称こと 「 小川 笙船 」 の物語が有名です。
幕末になって、蘭方医 ( 西洋医学 ) が台頭し 「 医学所 」 と 「 医学館 」 の対立から
新政府の 「 漢方医廃止 」 の方針によって閉鎖された時代背景など
皆さんにも日本の医療制度がどのような変遷で、西洋医学にとってかわったのか?
知って頂きたいと思うこともあるのですが、それはまた別の機会に・・・
映画も素晴らしいですから、観た事ないかたはオススメです!
私も加須市で、患者様の励みになれるよう日々精進していこうと思います。
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